青春シンコペーション


第7章 すれ違う心(4)


その日の午後。井倉は美樹と一緒に買い物に出掛けた。ハンスは子ども達のレッスンがあり、彩香がそれを手伝うと申し出ていた。その間に二人は買い物を済ませることにしたのだ。

「それにしても彩香さん、すっかり元気になったみたいで本当によかったです」
マーケットに向かう歩道を歩いていた時、井倉がほっとしたように呟いた。
「それは井倉君もじゃない? 彩香さんが元気になると、あなたも元気になるみたい」
美樹の言葉に、井倉は慌てた。
「そ、そんなんじゃありませんよ。僕はただほんとに……」
「ふふ。正直なのね」
美樹に笑われ、彼は耳まで赤くなっている。

「正直言うとね、わたし心配だったのよ。あなた達が傷付いたんじゃないかって……。もしかしたら、怒って家を出て行ってしまうかもしれないって……」
ゆっくりと雲が流れていた。
「ううん。わたし達にはそれを引き止める権利なんかないけど……。ハンスがね、心配してた」

高いフェンスで仕切られた並木道。頭上では、プラタナスの葉が風にそよいで揺れている。
「美樹さんは知ってたんですか? 彼がそういう仕事をしているって……」
彼女が頷く。その首筋に、透けるような木の葉の光の陰影が掛かる。
(美樹さんって、色が白いんだな)
何とはなしにそう思った。彩香にはない線の柔らかさと香りがする。ハンスが美樹のことを大事にしているのも何となくわかるような気がした。

「ごめんなさい。別にあなたを騙そうとした訳じゃないのよ。ただ……」
彼女が言い淀んで視線を伏せる。
「わかっています。それは職業上の機密なんでしょう? 大丈夫。気にしないでください。僕だってもう子どもみたいなこと言って拗ねたりしませんから……」
「あら、じゃあ、あの時は拗ねてたの?」
「え? ええ、まあ……」
二人は互いに顔を見合わせて笑った。その時、美樹の携帯が鳴った。
「あれ? 誰だろ?」
それは声優の春那からだった。

「はい。眉村です。え? 署名、そんなに集まったの? ありがとう。届けてくれるって? 悪いわ。もう駅まで来てるって……。わかったわ。私達も外にいるの。迎えに行くから待ってて」
美樹が電話を切ると井倉に言った。
「春那君。署名13枚も集めてくれたんですって……。駅まで来ているそうなんだけど、家がわからないって電話くれたの。この間は増野さんと一緒だったからって……。わたし、そこまで迎えに行って来るわね」
「じゃあ、僕はその間に買い物済ませておきます」
「あとで合流しましょ?」
「はい」
そうして、美樹は駅に向かい、井倉はスーパーで買い物をした。


そして、彼がスーパーを出て歩き始めた時だった。
「あ! 先輩!」
女の子が駆けて来た。
「栗田さん……」
思わず周囲を見回した。今日は彩香はいなかった。が、美樹に見られるのもどうかと思う。
「名前、覚えててくれたんですね? 感激! だって、井倉先輩、いっつも広美のこと忘れちゃうんだもの。あ、先輩じゃない。お兄ちゃんって呼ぶんだったんですよね。ごめんね、お兄ちゃん!」
そう言って腕に絡み付いて来る。

「ごめん。僕、ちょっと急いでるから……」
何とか引き放そうとする彼にしっかりとしがみついて離れない。
「急いでるって? お買い物ですか? だったら、広美も一緒に行きますよ。今日暇だから……」
「えーと、歯医者の予約してるんだ。だから、もう行かないと」
必死に言い訳する。
「じゃあ、治療が終わるまで待合室で待ってます」
「駄目だよ。そのあと、床屋と眼科の予約もしてるんだ。だから、ごめん。今日は帰ってくれないかな?」
「うーん。それじゃあ……」
ようやく彼女が離れてくれそうになったその時、美樹が声を掛けて来た。

「井倉君! お待たせ。暑いから、そこでお茶でも飲んで行きましょう」
あとから春那も付いて来る。
「お兄ちゃん、この人達は?」
栗田が訊いた。
「あら、この子、妹さん? 井倉君、三人兄妹だったの?」
美樹が訊いた。
「いえ、違います」
井倉が慌てて否定する。
「栗田でーす。音大の後輩なんです」
「そうだったの。わたしは眉村と言います。よろしくね」

「眉村って……あの作家さんの?」
「え、ええ。まあ……」
「すっごーい! わたし、ファンなんです。あとでサインしてください! あれ? そっちの人も見たことがあるような……確かアニメの雑誌に……」
「はい。声優の春那です。よろしく」
「きゃあ! 感激! 握手してください!」
栗田が興奮して叫ぶ。
「いいですよ。何ならサインもしましょうか?」
春那が言った。
「うれしい! 広美、こんな素敵なお兄ちゃんが欲しかったんです」


その後、結局4人で喫茶店に入った。そこで栗田と春那はすっかり意気投合したようでメルアドの交換までしていた。
井倉は彼女が春那の方へ行ってくれたのでほっとしていた。
(でも、あとで後悔するんじゃないかな? 彼)
栗田は井倉に言っていたことをそっくりそのまま春那にも言っていたからだ。
「いるのね、こういう女の子」
彼らが席を立った時、美樹がぼそりと呟いた。彼女もどうやら栗田のようなタイプは苦手らしい。

「それでね、広美、今度その絶叫マシーンに乗ってみたいの。でも、ちょっとこわーい。お兄ちゃん守ってね」
酔ってもないのに恥ずかしい台詞を連発し、もう時間だからと春那に言われて泣く泣く別れて行った。

「ご苦労様」
美樹が言った。
「すみません。僕のせいで厄介な子に付き合わせちゃって……」
井倉も詫びた。が、春那は相変わらず爽やかな笑顔を向けて言った。
「そんなことありませんよ。彼女、明るくていい子じゃありませんか。ああいう子、僕は好きだな」
「そうなんだ」
美樹は呆れ、井倉は心の中で密かに思った。
(世の中にはいろんな好みの人がいるんだな)


それから三人で家に帰った。子ども達のレッスンはもう終わっていた。リビングでくつろいでいたハンスと彩香が笑いながら喋っていた。
「あら、楽しそうね。お邪魔して悪いけど、お客さんなの」
美樹が言った。
「ああ。春那君ですか。どうぞ」
ハンスは機嫌がよかった。

「彩香さんがね、ドイツのこと詳しくて驚いちゃった」
ハンスが言った。
「詳しいだなんて……。たまたま何度か旅行に行っただけですわ」
「謙遜することはありませんよ。地元の人間だってみんながみんな知ってないですよ。本当に美味しい料理を食べさせてくれるお店とか……」
「うふふ。わたしって意外と食いしん坊なんですのよ」
彩香がうれしそうに笑っている。しかもハンスと同じソファーに座り、彼の体に触れたり、埃を払ってやったりしていた。
(彩香さん……)
井倉の神経はまた少しピリピリした。

(そりゃ、ハンス先生はカッコいいさ)
彩香の父に対しても、見合い相手の浮屋に対しても、彼ははっきりと自分の主張を突きつけた。それどころか武器を持ったテロリストにさえ勇敢に立ち向かい、屈したりしない。
(叶わないよ。とても……)
井倉は肩を窄めた。
「そういえば黒木さんは?」
美樹が訊いた。
「ああ、白神さんちに行ったです。トマトの育て方教えてもらうんですって……」
「そう」
2匹の猫が美樹の足元に絡みついて鳴いた。

「ところで、ハンス。猫達にフードあげたの?」
美樹の問いにハンスは首を横に振った。
「まだですよ」
「もう30分も時間過ぎてるわよ」
「そうですか? じゃあ、ちょっとやって来ますね」
ようやくハンスが立ち上がると猫達は喜んで付いて行った。
「もう、仕方のない人ね」
美樹が呆れる。

「ところで、署名はどれくらい集まりましたの?」
彩香が訊いた。
「全部で13枚半です。すみません。あと10人、何とか埋めたかったんですけど……」
春那が言った。
「十分よ。ありがとう」
美樹が受け取る。
「それと、伯父さんがお礼を言っていました。ヘル バウメンと知り合いになれてよかったって……」
「でも、お店があんなことになってしまって……。本当に申し訳ありませんわ」
一連の流れを聞かされていた彩香が気の毒そうに言った。

「いえ。あの事件のせいでマスコミからも注目されましたし、近々改装する予定だったので問題ないそうです。犯人も捕まってるし、保険も効くそうなので……」
「それはよかったです」
ハンスが戻って来て言った。
「君と君の伯父さんのおかげでスムーズにことが運びました。ありがとう。そうだ。お礼に一緒に夕食食べに行きませんか? 近くに美味しいお子様ランチ食べさせてくれるお店があるんですよ」
ハンスが言った。
「まあ、ハンスってば、またお子様ランチなの?」
美樹が困ったような顔をする。しかし、春那は興味津々といった態度を示した。

「へえ。お子様ランチか。懐かしいなあ。ほら、あれって大人になっちゃうと注文できないでしょ? ぜひ行きましょうよ。でも、ほんとに大人でも大丈夫なんですか?」

「ええ。いつでもOKなんです」
そこでまた、みんな揃ってレストランへ出掛けた。春那はすっかりその店が気に入って、また食べに来たいと感想を述べた。そして、春那とはそこで別れた。


「あんなに喜んでもらえるなんて思わなかったな」
家に帰るとハンスが言った。
「そうね。それにあなたも……。春那君とあんな風に仲良くなれるなんて思わなかったわ」
美樹が微笑む。
「え? どうしてですか? 僕、誰とでも仲良しですよ」
「えーっ? それじゃあ、フリードリッヒとも?」
「ううん。あいつは嫌いだけど……」
ハンスが口籠るのを見て、美樹は笑った。
「でも、本当は結構仲良しだったりしてね」
「そんなことありませんよ!」
むきになって反論するハンスを見て彼女は言った。
「わかったわかった。もう言わないから……。わたし、しおりちゃんのところに署名届けて来るね」
そう言うと美樹は書類の束を抱えて出て行った。


そして、夜。ハンスと黒木が手分けして、二人ずつ学生のレッスンを行った。彼らはもともと薬島音大でハンスや黒木に付いていた者達だった。中には師を慕って音大を退学して来た者までいた。他にも相変わらず教室への入会希望者は多かったが、きりがないので、一旦申し込みを打ち切ることにした。

8時にはYUMIがやって来て、いつものようにハンスに指導を受けた。
「うん。前半は大分上手に弾けるようになったね」
レッスンが終わるとハンスが言った。
「ありがとう。YUMI、ピアノ大好き! 早くもっと上手になりたいです」
「君ならすぐになれるよ」
ハンスもにこやかに応える。
「ほんとに?」
「君は手が器用だし、覚えも早い。他にも弾いてみたい曲があれば教えてあげる」
「わあ! ありがとう」
YUMIは喜んだ。

「YUMIちゃん、よかったわね」
今日は雪野も一緒だった。
「それから、明日のレッスンは都合でお休みしたいんですけど……。急に撮影が入ちゃって……」
「構いませんよ。大丈夫です。でも、指を動かす運動はちゃんとしておいてね」
ハンスがYUMIに注意する。
「はい。わかりました、先生」
子どもはうれしそうに頷いた。


二人が帰ったあと、井倉がみんなにお茶を運んで来て言った。
「あんなに小さいのに、夜もお仕事があるなんて大変ですね」
「うん。YUMIちゃんもね、はじめはこのお仕事嫌いだったんですって……。でも、今は大好きになったって言ってましたよ」
ハンスが紅茶のカップを持って言った。
「あの子、どんどんきれいになってますもんね。仕草とかも……」
感心したように井倉も言う。
「そうね。でも……」
彩香は珍しく躊躇するように続けた。

「あの子、自然ではあるのだけれど、何となく違和感を感じるの」
「違和感?」
美樹が訊いた。
「ええ。よくはわからないのだけれど、あとから作られてるっていうか……」
「それは……タレントさんなんだし、マナーとか立ち居振る舞いは仕込まれてるんじゃないですかね」
井倉がYUMIを弁護するように言う。
「そういう型式とも違うのよ、だから違和感を感じるの」
彼女は怪訝そうに首を傾げた。

「そうだ! 明日の夜は予定がないんですね」
突然、ハンスが言った。
「ええ。我儘を言って申し訳ありませんが、この日だけは前から予定を入れていましたので……」
黒木が頭を掻いて言った。
「確か、結婚記念日なんですよね?」
美樹が微笑する。
「ええ。毎年この日は妻と二人でレストランへ行くことにしてるんです」
「まあ! 何てロマンティックなんでしょう!」
彩香もうっとりと言った。

「いや、この年になって恥ずかしいですよ」
「そんなことありませんよ。何才になっても、そういうコミュニケーションは大事です。ねえ、美樹ちゃん、せっかくだから僕達も何処か行きませんか?」
ハンスが言った。
「ごめんね。明日はお仕事があるのよ」
「ああ、またアニメの仕事ですか?」
美樹が頷く。
「それなら、仕方がありませんね」
ハンスがあっさりと引き下がったので美樹は何だか拍子抜けした。

「でしたら、先生、わたしと付き合っていただけませんか?」
唐突に彩香が言った。
「付き合う?」
「実は友人が赤坂にお店を開いたので招待されているんですけど、ダンス付きなので、エスコートしていただけるとうれしいのですが……」
「ダンス? 楽しそうですね。いいですよ。でも、そんな突然行っても大丈夫なんですか?」
「ええ。いつでもどうぞってことでしたので……」
「じゃあ、僕は彩香さんと出掛けることにします」
ハンスは機嫌良く承知した。

「それじゃあ、井倉君も一緒に?」
美樹が訊いた。
「ハンス達と出掛けてもいいのよ。わたし、鍵持って出るから……」
しかし、彩香はきつい口調でピシャリと言った。
「井倉ですって? 駄目よ! 彼は一緒に来る資格なんかないわよ。ダンスもろくにできないんですもの」
「彩香さん……」
美樹が取りなすようにおろおろと二人を見つめた。が、彩香はそっぽを向き、井倉は俯いて言った。

「いいんです。僕は家でピアノの練習しなくちゃ……。バウメン先生から課題がたくさん出されているんです」
「そうね。その方が賢明だわ。あまりに分不相応な場所に出て恥をかくのは辛いでしょうからね」
彼女はそう言うとハンスの方へ身体を向けた。
「それじゃあ、早速明日着て行くドレスを選ばなくちゃ……。先生は何色のドレスがお好きですか?」
「僕は特に好みはありませんよ。彩香さんに一番似合う色がいいんじゃないかな?」
「まあ、お上手ですのね」
彩香は僅かに頬を染め、口元に手を当てると上品に笑った。
(彩香さん……)
井倉はその場にいたたまれなくなって席を立った。


キッチンではさして汚れてもいないケトルを井倉がせっせと磨いていた。美樹はじっとその後ろ姿を見ていたが、ついに声を掛けた。
「井倉君……」
「何ですか?」
井倉は顔をあげずに言った。
「きっと悪気はないのよ。あの二人。だから、ハンスのこと怒らないであげてね」
「……わかっています」
シャボンの泡が一つ、パチンと弾けて目に入った。彼は腕でこすって瞬きした。
(わかってるさ。これはハンス先生のせいじゃないって……。でも……)
彩香が何故ハンスにあんな態度を取っているのかわからなかった。これまで誰に対してもクールでいた彼女が……。
(どうして……)

「彩香さんは、きっとあなたのことが好きなのよ。だからわざと冷たくしてるんだと思うの」
美樹が慰めるように言った。
「そんなこと……」
(信じられないよ。だって……)

――井倉ですって? 駄目よ。一緒に来る資格なんかないわ。ろくにダンスだってできないんですもの

(確かに僕はダンスなんか踊れない。けど……)
「美樹さんは?」
不意に顔を上げる井倉が訊いた。
「いいんですか? 彼女と先生があんな風に仲良くしていても……」
「そうね。気にならないと言えば嘘になるけど……。それは彼らが決めることでしょう? ハンスは確かに子どもっぽいところはあるけど、そこのけじめが付けられない人ではないと思うの。だから……」
「信じてるんですね? 彼を……」
彼女が頷く。

(やっぱり大人なんだな。彼女は……)
前の道路を通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけカーテンの隙間からキッチンに広がって消えた。
そして、その日は夜半になってから雨が降り出した。